1958年10月。
新栄プロダクションは産声を上げました。
浪曲ブームのなか、若き興行師として一本立ちした西川幸男。
「西川興行社」という名前のその会社は創業当時、西川幸男と
社員一人での出発でした。
創業者、西川幸男が生まれたのは大正14年。
テレビもなく、庶民の楽しみはラジオから流れる浪曲。
そんな時代。
義理人情を重んじ、日本人の心の琴線に触れる浪曲。
ラジオから流れる朗々たる声を聴きながら過ごす幸男少年。
浪曲の魅力にすっかり魅せられてしまいます。
やがて自らも浪曲師になることを決意。
「俺も人間に生まれたからには自分の好きな道を行きたい」
日本を代表する木村友衛師匠に弟子入りした幸男少年は、やがて
浪曲師としてよりも、マネージャーとしての才能を開花させ、
頭角を現していき、ついには興行師として独立を果たすのです。
この時代、各地で興行を行うには、地元の親分衆を通して行わなければなりません。
ときにはトラブルに見舞われることになりながらも、着々と西川興行社の名は広まっていきます。
そんな時、西川幸男にとっての運命の出会いがありました。
昭和24年の暮れ、幸男の元に一通の手紙が届きました。
東京へ上がりたい。しかしわたしには相談する相手がいない。そこであなたに聞く。
イエスかノーか。はっきりした返事が欲しい」
酒井雲坊、のちの歌謡曲界の大スター、村田英雄でした。
「結婚しているのかどうか、それを知りたい。独り身なら問題ないが、家庭があるなら奥さんと子供を置いて、単身上京できるのかどうか。その覚悟があるなら、こちらの返事はイエスである。女房子供を呼び寄せる日は必ず来るだろう。しかし、三年間は我慢してほしい」
以前、酒井雲坊の浪曲を聴いてとても感動したことのあった幸男は、すぐ返事の手紙を書き、酒井雲坊を迎えます。
昭和24年12月27日。
東京に酒井雲坊は単身到着しました。
酒井雲坊を真打ちに迎えた西川興行社は、数々の苦難を乗り越えつつも、少しずつ大きな興行を行うようになります。 少しずつ人気を得ていく酒井雲坊。 年に数回の大きな興行も各地で成功をおさめていた西川興行社でしたが、実際財政事情は火の車。運転資金を得るのにも窮することもありました。 やがて浪曲ブームが少しずつ終わりを迎えつつあるとき、すでに改名していた、村田英雄に転機が訪れます。
歌謡曲界への転身です。